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ジャズ侍のブログ小説 ~ 青い光      

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1990年代半ばの京都を舞台にしたバンド小説を書いてます。文中の場所、人は全く架空のものであり、実在の場所、人との関係は一切ありません。掲載は当面、毎月第一水曜日の予定。

第一話 「黒猫は踊る」 第6節

     六

 ・・・・俺の想像力も、大したもんじゃないな。
 これが夢だとは既に分かっていた。
 あの黒猫が、横笛を吹きながら、二本足で歩いている。
 辺りは真っ暗なのに、あいつが楽しげに歩いている様子が良く分かる。
 何がそんなに楽しいの、お前は。
 “楽しいのは、僕じゃなくて、君でしょう?”
 俺が? 何で?
 “つい、この前まで、君は死んでいたようなもんでしょう?つまらない毎日にうんざりしていた。諦念からシニカルな振りを装って、仕事と酒の繰り返しをコントロールしているような顔をしていたけれど、本当は何か刺激的なことを、そして愛を、探していたはずだよ”
 ・・・・お前は、えらくお喋りだったんだな。
 “エリックは、君を気に入ったんだよ”
 ふと気付くと、黒猫は、あの変態ベーシストの黒く太い腕に抱かれていた。
 “道路から連れてきてくれましたから。危うく、散り散りになって、埃になって空気の中を虚しく舞うところでした”
 “そうなれば、海には帰れない”
 海に帰る?
 “そう。あの娘さんにも、お礼を言いたいところです”
 そういう黒猫の頭を、オヤジは軽く撫でた。
 黒猫は、やがてオヤジの腕をすり抜けて、また、踊り出す。
 オヤジも、あの珍妙な腰つきで踊り始める。
 ・・・・なあ、お前達は今、楽しいかい?
 “僕達が一緒なら、何時だって楽しかった”
 “何時だって、自由だった”
 黒猫は横笛で聞き覚えのあるミンガスの曲を吹き始めた。
 ああ、“What Love”だっけ。あの演奏は、俺も好きだ。一九六〇年の録音で、エンドテーマ手前、殆どフリーな、長い、ミンガスとドルフィーのデュオの部分がある。その部分は、本当に、自由なお喋りの様なのだ。
 あれは、あの形式の中では自由な演奏だな。
 俺がそう思った瞬間、
 “形式と自由は対立しない”
 “だが、自由を概念化する時、自由は形式になる”
 “どのような形式であれ、抑圧に変わる危うさがある”
 “そして、抑圧には際限がない”
 ミンガスと黒猫は、代わる代わる言った。
 “形式の中であろうと、自由でいることはできる”
 “一方、ある自由を自由と名付けた時から、それは形式となり、自由を抑圧する”
 “気をつけるのだ。本当の自由に形式はない”
 “形式として自由を求めれば、すぐさま、抑圧は君を取り囲み、飼い慣らすだろう”
 “そうだ。自由の形を名状するのは止せ。誰にも名付けることのできない解放と神秘を探すんだ”
 “君は必ず、それに抱かれることができる”
 “共に創造する解放と神秘を、愛する人たちと共有するんだ”
 二人はそう言って、踊りながらゆっくりと消えていった・・・・。
 ・・・・ガバッと布団を跳ね上げた瞬間、俺は軽い頭痛におそわれた。
 「あー、やっぱり」夢だった・・・・。
 言っていたことの意味は良く分からなかったが、それでも、夢の中でドルフィーとミンガスに会えたことは嬉しかった。
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by jazzamurai_sakyo | 2008-04-09 10:00 | 第一話 「黒猫は踊る」